氷河期初期世代おばはんの日々うらうら

就職氷河期初期世代のおばさんが時事問題に思ったりすることや、日々のあれこれ

いじめは、親からなくしていかなくては子供は変わらない

旭川の件から、だいぶメディアも「いじめ」というものを多く報じるようになってきたような気がする。
被害者の方、ご家族、近しかった方々には本当に気の毒だし、もっと救えた、何か方法があったのではないだろうかと思ってしまうが、その前に考えてしまうことがある。


「大人同士でいじめがあるのに、子供に他者をいじめるな、と説明できるのか」
という事。


ぶっちゃけ、現在も私は社内でいじめ、というか、まぁ「無視」とか「ほぼ返答をもらえない」とか、そういう類の対応をされている。
勤務しているのは外資系なので、本社に近いポジションや、ローカルだけで完結するポジション、それぞれ色々立場が異なったりスキルも異なったりするので、今回はその違いからおそらく標的にされたんだろうな、と思う。

 

「無視」というのもパワハラの一種なのは分かっているし、正直不愉快であることは事実。
でも、例えばこれを労基署やユニオン、または本社に掛け合ったところで、尚更自分が不愉快な思いをさせられる結果になる、という事も経験上知っているので、後は自分がまた転職をするか、無視を無視することでとりあえず淡々と仕事をこなせばいい、と
思うことにするか、の二択で今は考えている。
本社にはそういう人はいないので、ローカルで我慢していればいいか、後はよさげな転職先が出てきた時に考えるか・・・という感じだ。

 


と書くと、私が「淡々と」しすぎているようだが、幼い頃からこの年になるまで、もっと悲惨な目に遭ったことがあるので、変にドライになってしまっているのだと思う。
おかげでもう10年以上、心療内科のお世話になっている状態。
投薬治療をしている限りは、希死念慮もかなりなくなってきたし、感情の起伏も「ある程度普通」になっているが、治療を止めたらどうなるかは分からない。

事実、投薬治療をしている間に、オーバードーズで私は緊急搬送されている。

半分意図的に、半分無意識にしてしまったオーバードーズだった。

 

今まで勤めていたところでも、会社の規模に関わらず、「いじめ」だったり、それに近いものだったり、はっきりとパワハラだったり、というものがあったところは結構ある。
また、友人と話していても、やはり何かしらの「いじめ」の話は多い。
さすがに暴力に訴えたり、刃傷沙汰になったりはほぼないが、その分、メンタルを攻撃してくるものを駆使してくるのだな、大人の社会では。
「たかがメンタル」と思う人もいるかもしれないが、地味に無視され続けたり、会議から締め出されたりし続けると、やはり人ってのは病むんだよ。
だから心療内科にも通うし、それなりの規模の会社の時には、休職したこともあった。


大人の社会、しかも「会社」「企業」という場所でもそうなんだから、子供の社会、「学校」や「塾」、「近所のグループ」などなど、そういうところで発生する「いじめ」を、実は会社で自分も加害者/被害者になっている親が止めることが出来るんだろうか?と私は思ってしまう。


私自身、子供の頃からいじめや、教師からの体罰に遭っていたので(私の年代ではまだ体罰なんてアリアリだったからな)、子供ならではの酷薄さ、残酷さは身をもってよく知っている。
竹の棒(さすがに竹刀ではなかったな)が折れるくらいまで頭を叩かれたり、半日以上、真冬の廊下に半袖ブルマーで正座させられたり、修学旅行で夕食をもらえなかったり。ひどかったなぁ。
おかげであれから40年ほど経った今でも、原因不明の頭痛で投薬しているし(CT撮ったりMRI撮ったり・・・漢方や鍼灸も試したけれど、まぁ、痛み止めしか有効手段はない。鍼灸の先生に、「子供の頃に頭をケガしたり、激しくぶつけたり、もしくは赤ちゃんの頃に誰かが誤って落っことしたりしたことはないですか?」と聞かれて、赤ん坊の頃の事は両親にも聞いたが、そのあたりはなし。その時にもしかして、と思ったのがこの「竹の棒折檻」だった。それを先生に言ったら、「可能性は高いですね・・・」と。ちぇ。)、半日正座の時にはおそらく先生は私が生理中だってことに気づいてたのだと思う。ナプキンも変えられないまま、半日座ってると、そりゃあ当然漏れる。
トイレにも行かせてもらえなかった。パンツからブルマ、足、そして上履きまで経血が染みていたから、「帰っていい」と言われても立ち上がれなくて、ほぼみんな下校するのを待ってとにかくナプキンを変えて、着替えて汚れた服や上履きをもって、家に帰ったっけ。
教師にいじめられてる事を知っていた親は、何があったか問い詰めはしなかったかな。何度か、「学校に行きたくなかったらいいんだよ」と言われたことはあった気がするが(このあたりは、もう記憶が飛び飛びなんだよね。高校くらいで気づいたけど)、頑固で意固地な私は学校には通い続けた。
しかし、今だったらいくら賠償請求出来たんだろう、と思うよね、このいじめ。

 


こういった体罰、暴力が絡むいじめであっても、今まで謝罪を受けたことは勿論ないし、「なかったこと」となっている。
というか、ハッキリ言って、やっている方はおそらく「相手が傷つくと嬉しい」し、「死ぬとか馬鹿じゃね?」くらいの浅薄な考えしか持っていなかったり、もしくはむしろ「いなくならないかなぁ=引っ越したり、死んだり、なんでもいいから視界に入ってくるな」くらいの考えを持ってやっているというのを知っている。
そう、面と向かって言われたこともあるし、そう話しているのを偶然聞いたこともある。
まさに、虫の手足をちぎって楽しむ子供の残酷さだ。
「生きている人間」を使って、ストレス発散するのだからね。
暴力(物理)だろうが、精神だろうが。

 

今、子育てしている中の一部、もしくはこれまで子育てしてきた中には、勿論私の年代も入っている。
両親は、「加害者」だったかもしれないし、「被害者」だったかもしれないし、「傍観者」だったかもしれない。
ラッキーなら、身の回りに「いじめ」というものがなかった人が両親だろう。(しかしそうすると、「いじめ」を理解していない弊害はあるのだが)

 


そんな両親が、「いじめはいけないよ」「みんな仲良くしようね」と上っ面で言ったところで、その言葉は子供に響くだろうか?
「日本」という環境が、「単一民族」だったり、「一億総中流」だったりというのが強調されている部分があるので、特に私の頃(まぁ、35~40年前か)は人とちょっと違うだけでいじめの対象になった。
人と違うバックグランドを持つ、人と違う考え方をする、それだけで「目ざわり」。

目ざわりなものは、いじめてもいい。

「仲間じゃないから」


今はそれなりに人種も増えているが、それでもこの、「ちょっと違う」という事が引き金になる、というのは多いと思う。
まるで「みにくいアヒルの子」のように、目立ってしまうのだ。
同じ黒い髪、同じ黒い目、肌の色もほぼ同じ、話す言語も同じ、同じ制服、同じ指定鞄、同じ靴・・・・・
だからこそ、その中でちょっとでも何かが違うと、悪目立ちしてしまうのだろう。
例えそれが目に見えない、「ちょっと違う考え方」などでも。
(考え方が違うと、行動が違ってくるから、そのせいなのかな、と思ってはいるが)


そうして、子供の頃から培われた「同じグループ」感を持ったまま大人になると、会社の中でも「同じ感覚のグループ」を結成するのだろうか。
組織の中で、「この人たちとは仲がいい」「話しやすい」「よく飲みに行く」くらいのグループ感なら問題はあまりないが、「それ以外」を排斥するようになると、行動はよくいじめ、ハラスメントにつながっていく気がする。


私が組織内でいじめやハラスメントを受けるのは、ほぼ100パーセント、日本人の間で、だ。
本社だったり、他国の支社だったり、そういう人達から何か排斥されたとか、レイシズムに遭ったとか、そういう事はない。
(旅行先で、アジア人だという事でレストランの席がトイレの前だったり、スリに狙われたりはあるが、組織内ではそういった記憶はない)


やはりそれは、そもそも「似たもの」を求めていないからなのかもしれないし、すごく仲良くなって、一緒に旅行に行ったりするようになっても「相手に同じ行動・意識は求めない」という感覚が根底にあるからなのかもしれない。
一緒に旅行したり、お互いにプライベートな事も結構知っていたりしても、日本人の「仲良し」とは何だか違うんだよね・・・
個人的には、その「仲良さ」と「ドライさ」を併せ持つ感覚が非常に心地よいのだけれども。


かつての日本は、いじめがある代わりに、その同じウェットさから、互助会のような近所づきあい、他人に親切にする、等のいい面もあったのだと思う。
海外の「レディーファースト」とは違う、独特の「助け合い」だ。
しかし今は、ウェットさからくる「いい面」はほぼなくなり、「悪い面」であるいじめ、無視、等だけが残っている。
隣は何をする人ぞ、を超えて、近所の騒音への抗議、子供の排斥、優先席の取り合い・・・。

もしかしたら子供は、親が近所で他のママさん、パパさん、独身の人、高齢者、等をディスっているのを聞いているかもしれない。見ているかもしれない。

いや、むしろその確率の方が高いだろう。

 


親がこんなことをしていたら、子供だけ「いじめはダメよ」が浸透するワケがない、と私は思う。
「いじめはダメ」
子供にそれを教えたければ、親が行動しなければいけないのではないだろうか。
「他者排斥をやめよう」という、STOPの行動を。