氷河期初期世代おばはんの日々うらうら

就職氷河期初期世代のおばさんが時事問題に思ったりすることや、日々のあれこれ

氷河期世代はガンダムと親和する

私は氷河期初期世代になるが、自分自身を考えると、別の言葉で言うと「ガンダム世代」なのだなぁ、と感じることがよくある。
今でも「機動戦士ガンダム 水星の魔女」が放送されるなど、あれからずーーーーーっと続いているガンダムシリーズだが(途中からは見ていない)、丁度この時代が「アニメ過渡期」でもあったではないだろうか。

 

記憶をたどってみると、子供の頃に見ていたアニメは大体3分類される気がする。
所謂、「カルピス劇場」系の、名作シリーズ。(赤毛のアンとか、トムソーヤーとか、名犬ジョリィとか)


そして少女向けアニメ。(魔女っ子メグちゃんとか、キューティーハニーとか)


それからあ、超合金系。(マジンガーZグレートマジンガー宇宙戦艦ヤマト、そしてこの中から機動戦士ガンダムが出て来るワケだ)

 

私は物心つく前には、トムとジェリーセサミストリート、ディズニーも見ていたらしいが、こちらはうっすらとしか覚えていない。
むしろ、大人になってから見た記憶で上書きされているので、何を実際に子供の頃に見たか、というのはよく覚えていない。


その中でも、やはり「機動戦士ガンダム」は他とは違っていた、と思う。
私は打ち切りになった最初の放映ではなくて、おそらく1回目の再放送を見たのだと思うのだが、丁度「光る宇宙」のあたりで家族で引っ越しになり、その時は最終回まで見れずに終わっていたような気がする。

 

次の再放送の時には、しっかりとテレビにかじりついて見たのは勿論のことだ。
それまでのマジンガーZなども好きだったが(ゴレンジャーとかもね)、何故かガンダムには「かじりついて」見た。
今、それが何故だったのか、と考えてみると、そういえばこれ、「ガンダム発」なんじゃないか、と思う部分がいくつかある。
(ここからの考証は、まるっきり私の私見だし、ほぼ調べたりはしていないので勘違いがあったら申し訳ない)

 


1.「軍人」「民間人」「弾幕」「補給」「整備」・・・
このような言葉がアニメに使われていて、「戦い」には「補給」がないといつか弾切れになってどんな装備があっても負ける、という事実を突きつけられた感覚。比較していうなら、宇宙戦艦ヤマト、地球からイスカンダルまでの14万8千光年先までの間、一度も補給を受けずにどうやって「往復」したんだ、という感じ。(しかも帰路は殆ど描かれていない)
また、「軍人」は、生命をかけて戦っている代わりに武器を持っているが、「民間人」は守られる代わりに武器がない。しかし、必ずしも完全に守られるわけではなく、死んでいく人も多い、という事。ガンダムではサラっとショッキングな死亡シーンがある。
こういったリアリティが、他のロボットアニメよりも強烈な印象を与えたのではないか。


2.それまでの「ド根性」系主人公成長物語とは違って、主人公(アムロ)、他キャラクターにそれぞれ「迷い」や「ためらい」、「ひより」などの弱い部分があるという事をしっかり表現していること。
まぁ、偶然両方とも古谷徹さんが声をあてているが、「星飛雄馬」と「アムロ」の描かれ方は全く違う。そもそも、「戦いに行きたくない」「もう怖いのは嫌なんだ」と断言したり、戦場から逃げ出したり、引きこもったりする主人公、ってのは異色だった。(ニュータイプとして最強な存在のはずなのに、ファーストガンダムアムロは、ララァを殺してしまう、という体験をするまで、精神的に弱い方に流されがち。周りから見たら、「あいつには勝てない」の「アムロ無双」状態なのに、本人はあまり自覚していない)
その「誰だってずっとヒーローではいられません」を体現していたのがアムロだったのだろう、と思う。


3.敵・味方、もしくは正義・悪が混在している。
これが一番のリアリティだったのかもしれないが、「連邦軍=正義」「ジオン軍=悪」の簡単な図式で描かれなかった、というか、自分が「どちらにつくか」で善悪が変わってしまうような、まさに「戦い」のリアルを描いていた、という事。
これは子供向けアニメ(しかもスポンサーはバンダイ、プラモデルを売るためのアニメとしての立場では難しかっただろう)でこれを描けたのは、何はおいておいてもシャアという存在があったから可能になったのだと思う。
シャアは何しろカッコいい。けれど妹のセイラを連邦軍に置くことで、シャアの立場がより「正義>悪」と見えるようになり、「ジオン軍が悪いじゃん」と言い切れない状況を作ったのがすごい。
だって、ファーストガンダムだと特に「誰が一番カッコいいか」となると、そりゃあシャアだよね。アムロがカッコよくなるのは最後の最後なんだから。

 


4.「あれって実在してなかったんだ」言葉の創生
小学校時代からどっぷりガンダムに浸った世代としては、例えばミノフスキー粒子ソーラレイシステム、マグネットコーティング等、「これって現実にはないものだったんだ」というものが多々ある。
言葉を聞いただけで、思わずぶるっと懐かしさで震えが来る系の単語だ。
「あたかも」本当にあるように、さも当然に使われていた言葉なので、一瞬、リアルとファンタジーが脳内で交差するような瞬間がある。
ガンダムに限らず、他には「銀河鉄道999」のトレーダー分岐点、等もそういう言葉に該当しそうな気がする。
うっかりこれ系の単語を使ってしまって、社内やリア友に「オタクバレ」することもある。
(麻雀と似たようなものかな。うっかり「両面(リャンメン)待ち」とか言ってしまったり、もう少しで仕事が終わる、という時に
「リーチかかってます」と言ってしまったりで麻雀が出来ることがバレたりする)

 


機動戦士ガンダム」という作品の中に、こういった「ハマる」要素が沢山存在していたわけだが、その中でも私たち「氷河期世代」と親和性のあるポイントがあるのも、これは富野由悠季がうまく時代にハメたのか、それとも偶然だったのか。

 


例えば、氷河期世代自身からの視点では、「え、先輩はすぐ就職先決まったのに、なんで??」とポカーンと口が開いてしまうくらい、急に求人がなくなり、企業にアタックしてもすげなくお断りされ、「大企業→それなりに名のしれている中小企業→なんでもいいから株式会社→有限会社でもなんでもいい→フリーター」という衝撃の就職戦線になったわけだが、それはまるで、コロニー落としで都市が滅亡しました、というくらいの180度の変わりっぷりだった。
(氷河期初期世代の私からすると、本当に1年の差、が人生を変えた状態だった)

 

そうしてフリーターや、今でいう非正規、または存在すら知らなかったような有限会社(もれなくブラック)に就職、という形で働くことになったのも、ぶっちゃけ「自分が望んで」ではない。
「望んで」そんなところで働きたくなかった、とか、「望んで」フリーターになった、とか、「望んで」非正規になった、という人は少ないだろう。
そして一見「望んで」そうなったと思われる人は、実は「1、2年我慢すれば、何とか景気もマシになるだろう」と考えてフリーターしたり、留学したり、学士入学したりしたわけだ。まさかそのまま、20年、30年と続く「失われた」世代になるとも知らずに。

 


そんな状況は、「望まずに」ガンダムに乗り込むことになり、「望まずに」人を殺すことになり、「何か知らないうちに」軍人になって階級がつき、戦死した仲間には「二階級特進だけ・・・?」という事実を突きつけられて、もどかしく叫んだり、悩んだり、引きこもったり、それでもだるい体を引きずって戦場に向かっていくホワイトベースの民間人あがりの軍人(ブライトとリュウ以外のメインキャラはほぼ民間人あがりだ)の生き延びるためにあがく行動に「知らず共感してしまう」ものだった

 


じゃあ連邦軍だけに共感していたかというと、ジオン軍には正規軍人しか出てこないが、逆に「今までと同じようにやっていれば成功する=勝ち組になれる」と思っていた何とか就職戦線を勝ち抜いた層が、まるでアムロ黒い三連星を打ち破るように、思いもしなかった特技、資格、ツールを使って自分たちを追い抜いたヤツが出てきた、という状況のように、「折角うまく就職できたのに・・・」というルートを辿ったグループにめちゃくちゃ刺さることになった。

 


あまりにも理不尽な状況に落とされた世代が、自分の境遇とリンクさせたり、一縷の望みとして、「俺もニュータイプになれるかもしれない」=語学やプログラミング、資格等、何かが突然「武器」になって就職出来たり、昇進出来たり、新たな道を作ることに成功できるかもしれない、と思ったりと・・・。
そんな「氷河期世代」と「ファーストガンダム」は、刺さるという言葉を上回る親和性を持っていたのかもしれない。

 


そしてそれから、アニメの作画は美しくなり(作画崩壊は置いておいて)、ジブリやゲーム、様々な方面に進出していき、今では「ジャパニーズカルチャー」として世界から認められている。
(余談だが、実は1990年代には既に海外で日本のアニメは結構放映されている。スペインでランチしようと、現地の人しかいないような定食屋さんに入ってたどたどしく注文し、わーいご飯だ、とモグモグしていたらどこかで聞いた音楽がかかり、え、ドラゴンボール??みたいな事はわりとあった。勿論スペイン語になっているわけだが、OP曲はそのままだったりして、目の前のスペイン語オンリーのメニューと、背後から聞こえる「チャーラ♪ヘッチャラー♪」に、混乱したのは懐かしい記憶)

 


また、3.11後に計画停電が始まる、という時に、ヤシマ作戦だ、みんなやろうぜ」と、謎の結託力を発揮して海外から「何故日本人はそんなことが出来るのか?」と言われるようになったり、自衛隊が地域参加型イベントでしっかり砲手の一部をジャスタウェイにしていたりと、「また日本人がやりおった!」という謎現象を生み出したりしている。

 

かと思えばリアルに「飛べるメーヴェ」を作り出した工学者がいたり、等身大ガンダムがオリンピックに映りこんで、「これが日本だ!」と興奮した海外Youtuberがいたり。


今、上は50歳を超えた氷河期世代、ロストジェネレーションな私たち
私たち氷河期世代は、確かに沢山のものを失った。もしくは手に入れられなかった。
「こんなはずじゃなかった」という状況に陥り、いまだに這い上がれず、むしろ「もう我々老兵はどうにもならん。若者を助けてやろうじゃないか」と鉄郎を999に乗せたパルチザンのような台詞を吐きながら、ゼロの終活をどうすべきかを考えている。

 


こんな、「オールロスト」した我々が出来た事は、上の世代からは努力不足とけなされ、下の世代からは使えないと揶揄されつつ、心は既に他の世界に飛ばしたままで這いつくばって生きていく、という事だったのではないだろうか。
だからこそ、今でも私たちは「何か刺さるもの」「共感できるもの」を探して、それにすがって生きていく。
手の中に残ったのは、遊び心だけなのかもしれない。その心だけは大事にしていこう。

 

最期の惨めさを払拭するために、ロスジェネはせめて老兵になるしかないのかな。