氷河期初期世代おばはんの日々うらうら

就職氷河期初期世代のおばさんが時事問題に思ったりすることや、日々のあれこれ

ジェンダーは、生き死にの問題ではないだろうか

「男女平等」「ジェンダー論争」ってなんだろう。


この連休中、やもめとなった父の世話に行ったり、母のお仏壇に使うための小物の縫物などをしていたりして、ふとそんなことを考えた。


私は基本的に、「男女機会平等」主義なんだろうと思う。
まず、男女、また個々人でそれぞれ身体的なものや、性格的なもの、また既往症などもあるのだから、性別などのまるで箱のような枠にポイポイと仕分けていくやり方は合理的ではない、と思っている。
男性でも花や美しいものが好きだったり、争いが嫌いだったり、体力があまりなかったり(いい言い方ではないけど)、家事が好きだったりふわふわした服が好きだったり、それは個々人で違う。
好みの違いと、身体的な違い。それは「性差」でもなく、「個々人の特性・趣味」である部分が大きい。

 

また女性でも、格闘技が好きで体を動かすのが好きで、ピシっとした服が好きで、機械をいじるったりする方が楽しい、という人もいる。
これもまた、好みの違い、身体的な違い、という「個々人の特性」だ。

 

その「好み」と「特性」が矛盾する場合もよくある。
私を例にしてみると、私は機械が大好きで、船や戦闘機、車、工場、橋、そういったものを見るとワクワクしてしまう。
機械関係の仕事についている期間が長いのは、やはり例え自分自身がエンジニアでもなく、そういったものを作ることも出来なくても、扱うものが好きなものならモチベーションが上がるからだ。
しかし、半面、私は様々な既往症を持っている。遺伝的なもので、肉体構造上仕方がない(手術しても治らない)ものもあれば、精神的に来るものもある。また年齢的に更年期なども関係しているので、かつて45キロまでなら持ち上げることが出来た機械部品も、おそらく今では持ち上がらないと思う。
それでも私は、モチベーションを保つために経理職だけれど、取り扱う製品はやっぱり機械がいい」というように折り合いをつけている。


そんな個々人の特性、特技、才能をある意味で「無視」して、鋳型に入れたように人を使ってきたのが、所謂昭和型の雇用システムであり、年功序列であり、「男は仕事、女は家」の家父長制というシステムだったのだと思う。

 


現在50代の私の両親の時代で、既に母はパートに出ていたので(私が小学校高学年から)、政治家が思っているほど「女は家」ではなかったと思うのだが、おそらく政治家の思うパートは、「月に数万円」のイメージで、妻側が自分で使えるお金を稼いだり、ちょっと家計を潤すために働く、というイメージだったのだと思う。
実際のところは、後から聞いた話だが、私の高校~大学の学費は母がほぼほぼ稼いでくれた分だったようだ。(ありがたや・・・)
そのせいなのか、姉の時にはなかった儀式だが、大学受験が終わって、入学金+1年次の支払に行くときに私も一緒に銀行に連れていかれ、母は窓口でお金を一度引き出し、その札束を私にドンと渡した。
そして、「これが、入学金と1年生の間の学費。覚えておきなさい」と言われ、私の手から再度その札束を取って、窓口で母は振込をした。


今まで、人生で帯紙幣を持ったことはなかったので、私は「これは、大学で怠けるなんて出来ないな」と思った事を覚えている。
(実際、私が選んだ大学は「このゼミに入りたい」というところまで決めて選んだところだったので、1年次から必修・選択共に単位を取りまくって、4年次ではほぼゼミだけが残っている状態まで行けた。ゼミがない日は、国会図書館や「持ち出し禁止」の図書館で資料を書き写す日々だった。決まった学費を払えば、取る単位の上限はないわけだから、興味がある講義は片っ端から取った。そのおかげで、今でも色んな方面のことを楽しめていると思う。)


大学の間、「衣食」としてお小遣いはもらっていたが、趣味や国会図書館でのコピー代(これが高い!)、本を買ったり、友達と出かけたり・・・のために、バイトもしていた。大学時代にしたバイトは、4~5個あっただろうか。2~3個掛け持ちしていた時期もあったし、長期休暇のみの単発もあった)


そうやって過ごした4年間の大学生活の最後。
就活、というステージで私は「就職氷河期」という壁にぶち当たった。

まだ、男子学生は何とか就職出来ていたが、女子4大卒は説明会の予約の電話をしただけで「採用しておりません」とガチャギリされた。
3歳年上だった姉は、スルスルと就活して、どこそこの説明会に行った、と言ってはお土産?にその会社の製品をもらったり、高級ホテルでご飯を食べて来たりしていたので、最初は「そんなはずはない!!!」と思ったが、4大卒の女子へのシャッターは既に降りてしまっていたのだ。
(何とか説明会に参加の許可をもらったり、書類審査が通っても、面接で「うちは、男性社員へのお嫁さん候補を取るんだけど・・・そんなに仕事したいって言われても・・・」と言われたこともある。)


そこからは、私の職歴の迷走が始まる。
その、職歴の迷走と共に私は「ジェンダー」というものを考えるようになった。

内資、結婚と共に無職(姑に就業を禁じられる)、元夫が「生活費」しか渡さなかったため、自分の美容院や化粧品、洋服代を独身時代の自分の貯金から払っていたが、実家に送っていた分もあったので底をつき、パートに出る、パートから、母校の非常勤職員へ、離婚、派遣、派遣から社長に認められ社員に(外資)、吸収合併+パワハラ+介護で力尽き、休職から退職、転職、転職、転職・・・・
母校の非常勤職員を最後に、それからはずっと外資の道を歩いている。


内資だった頃は時代もあり、「女子供」には残業時間や休日出勤の制限があった
しかし、時代は「24時間戦えますか」の時代。女性でも仕事がしたい人は、制限を超えた分は当然サービス残業だった。
夜遅くビルを出ることも労務監査上バツだったので、夜中にビルを出る時は、誰か男の人が通りかかるのを待って、その人にビル退勤の名前を書いてもらい、一緒に出させてもらった。
警備員さんが、「今日は誰も来ないね・・・困ったな」と、真冬、暖房もないビルの廊下でコートは羽織っているがタイトスカート、ストッキングにハイヒールで、ブルブル震えていた私を見て「何階の誰それさんとか、まだ残ってないかな」とか調べてくれたのを覚えている。


でも私は働きたかった。成果を出したかった。何かを成し遂げたかった。
サービス残業は悔しかったけど、当時はそれが「当たり前」でもあったので、まだ我慢出来た。
しかし、自分が交渉し、何度も見積を作り直し、何度も現地スタッフと調整し、全て英文の、キングファイル5冊とかの入札書類を作り上げたものが受注したはいいものの、一緒にやっていた課長の成果になるならともかく、他グループの一年上の男性社員、同期の男性社員の名前で社内報に出た時は殺意が湧いた。
それでも、仕方なかった。
同じ、女性営業同士で飲み屋で愚痴を言うしか出来なかった。
現地の、建設予定地の名前すらちゃんと覚えてない男性社員の手柄になるのは、本当に屈辱だった。
でも、それでも仕方なかった。

 

大型受注は全て男性社員のものになったが、内資に勤務していた4年弱の間、ちまちまと積み上げた補修用部品、交換用パーツ、メンテナンス費、それが退職間際になって1億になっていた時は、何だかちょっと「一応、私の名前も残ったのかも」と思った。
4年弱で、本当なら300億以上は受注した。課長と二人きりで。(失注したものも勿論ある)でも、それは全て男のものになり、私(女性)の名前が残ったのは、何百件に分かれる、ちまちまとした部品受注書。
しかし、何百億の入札の営業事務をやりながら、ちまちまでも1億の台に乗せられた営業事務は少なかった。褒められたが、複雑だったので、上手く笑えなかった。
内資での私の成績は、そこで終わった。

 


結婚してからは、私は転職するつもりでいた。
というか、会社自体が「女性は結婚したら寿退職。仕事をしたいなら、子会社に移る手段はある」という時代。私は子会社に行くつもりはなかったが、少なくとも子供が出来るまでは転職して働くつもりだった。子供が出来たら、その時に考えよう、と。
しかし、義母になる人から「働かないで」と、早々に言われてしまった。元夫は何も言わなかった。
義母の言葉なんて振り切って働く手段もあったとは思うが、元夫が嘘をついて自分の実家に一番近い(チャリの距離)社宅に申し込みをしてしまったので、「留守中に入られるかもしれない・・・」「元夫が、合鍵を渡すかもしれない」と疑心暗鬼にかられた私は、振り切って転職することが出来なかった。
「養われてるってことを自覚して」と、義父母から言われ続け、嫁いびりされていた実の母の気持ちがちょっと分かった気がした。(養えなんて頼んでねーよ、と今なら言い換えすだろうけど)


働きには出なかったが、Windowsがまだ発売されていない頃からPCを何とか買っていた私は、今でいうところの「在宅ワーク」をした。
可能な限り、節約もした。電子レンジを使わないで済むように、日の当たるところに冷凍したご飯を置いておいて、解凍されるのを待って自分の昼食にした。

 

とにかく、一日でも早く社宅を出たかった。1キロでも、義実家から離れたところに住みたかった。
しかし貯まったかと思うと、いつの間にか引き出される。何度も続いてから、恐る恐る元夫に聞いたら、「貯まってたから引き出して、株買った」と言われた。(元夫名義の口座だった)
元夫の名字になって、「〇〇の奥さん」「うちのお嫁さん」と言われ続け、自分の親や姉と、私自身の友達からしか名前を呼んでもらえなくなって、義母の監視下で、私は病んでいった。
まだ解凍も終わってない、凍ったお米をシャリシャリ食べていて、何かが壊れて行っていた。


そして、とある事件が起き、私はもうなんと言われてもいい、生きていけない、と思って仕事に出ることにした。
パートだが、離婚するにも既に私の貯金は底をついていたので、自分の自由、という選択肢を持つために働き始めた。
銀行のパートは、制服が支給されるので通勤がボロボロの服でも、流行からかけ離れた格好をしていてもさほどバレないのが助かった。
勿論元夫は、「家事に支障がないなら」という条件を付けてきたので、必死だった。
料理が出来ないほど疲れ果てた日は、元夫の好物のうなぎの蒲焼を買って帰って、うな丼にした。これなら文句は言わなかった。
うなぎの蒲焼で、一食分の食費は消えるので私はふりかけご飯かお漬物で食べていたが、元夫は気付かなかったようだ。(毎日、元夫は晩酌するので、途中から記憶は大体ない)


そんなことをして、少しずつ、少しずつお金を貯めようとしていた時、私の祖母の末期癌が分かった。
最初は既にパートを辞めていた母が病院に通って世話をしていたが、母も倒れた。
残りの家族の中で、正社員でなかったのは私だけ(嫁いでいたが)だったので、話し合った結果、交通費+αを私の実家が払うという条件で、私が片道2時間、往復4時間で祖母の介護に通うことになった。
(交通費は私が使うが、+αは元夫の手元に行くようにすることで許可をもらった)
祖母が入院している病院から、タクシーで癌センターまで連れて行ってラジウム治療をしたりと、完全看護ではなかった病院だったのでやることは多かった。
パートを減らして・・・と最初は思っていたが、週3日、往復4時間で早朝から夕方まで(元夫の帰宅までにすっ飛んで帰る)をやっていたら私も倒れるのが目に見えたので、私はパートを辞めた。


しかし元夫は営業職だったので、「今日は接待だから」のような日に介護日が重なっていたら、少しゆっくり帰れるのが助かった。(後で、一部が浮気だったことが分かる)
母は、私がバトンタッチして、しかもパートを辞めたことを知ると、+αの+αを私に払おうとしてくれたが、祖母にどれだけ治療費がまだかかるか分からないので、私はそれは後から考えよう、という事にして、受け取らなかった。

 

祖母の介護に行くと、殆どもう流動食になっていた祖母だったが、婦長さんが必ず三食、病人食を持って来てくれた。(何故かほぼ毎回、婦長さんが直に持って来てくれた)
その中から、祖母が口にしたいというものを食べさせて、祖母は「残りはアンタが食べなさい」と言っていたので、私もぽそぽそと食べた。
(祖母が亡くなってから、それが明らかに栄養失調の私への食事だったことが分かった。)


そんなこんなで祖母が亡くなり、あれこれが終わった頃にひょんなことから私は母校で非常勤職員として勤務することになった。
パートとは違って、一応非常勤ではあれど職員なので、私学共済に入ることが出来たり、慣れ親しんだキャンパスに戻って来れたことで私もちょっとリフレッシュした気分で仕事をしていた。
私のことをまだ覚えてくれていた教授もいたりして、大学を卒業してから、こんな形で戻ってくるとはなぁ、という感じだった。

 

人よりも早くPCを使っていたことや、最初の職場で英語を使っていたことなどもあり、結構仕事を任せてくれるところもあって、何というか、久しぶりに深呼吸することが出来たような気分で私は働いていた。


そして、そんな風に「私、生きてるんだ」と再確認した頃、元夫の浮気が発覚した
こんな状態だった結婚生活なので、私は未練も全くなく、あっさりと夫を捨てた。その間に受けた精神的苦痛と、実際に搾り取られた私の婚前貯金も、しっかり取り返した。

元夫は茫然としていたが、元義母が「あらぁ~~~あの子ったら。笑」と電話越しに笑ったので、「こいつが地獄に落ちる寸前に出くわしても絶対に助けない」と私は決心した。

 

あっという間に話をまとめ、協議書を作成し(こういう時、知識は役に立つ)、引っ越しの手配をして、私はまるで旅行に出るように、スーツケースに荷物を詰め、1週間は大学に通える状態にして実家に戻った。
自分で買ったものは引っ越し業者に持って行ってもらったが、元義母が押し付けてきたものは、全て残した。
荷物をまとめ、業者に持って行ってもらい、最後の荷物をスーツケースに詰めたら、案外殆どが元夫のものだったことに気づいた。
私は、「妻という奴隷」なだけで、「自己所有の本」も本当に最低限で、「自分の服」も最低限だった。
ノストラダムスの大予言も過ぎたのに、こんなバカみたいな昭和脳な人間を夫としてたのか、と思うとばかばかしくなった。


勤め先では、課長に「浮気されたので離婚しました。フルタイムの非常勤に出来ませんか」とお願いして、週5日出勤にしてもらった。
これで、何とか一人分の食い扶持を稼ぐ事は出来るようになった。
課長は女性だったので、「浮気」と聞いた瞬間、「浮気は、治らない病気。若いうちに分かってよかった。出来る限りの事はさせてもらうから、言ってね。後悔しないように」と、本当にフルサポートしてくれた。


と、こんなに書いたのに、まだ私が勤め始めてから10年分しかないのだ。後20年ちょい分、書いていない。
それでも「女」というだけで私が落ちた穴は多い。

 

1.就活:今は絶滅危惧種になっていてほしいが、「働きたい」女性を採用するのではなく、「男性社員の嫁さん候補」として採用する、という時代。「働きたい」と言うだけで怪訝な顔をされたものだ。

 

2.最初の内資企業:女性の残業制限があったので、サービス残業が殆どになる。しかし、それでも、どんなに受注しても、手柄は男性
下手したら年下男性社員の名前になってしまう。(勿論、成果分の昇給も何もない)
こんな状態で、女性が長く働くためには「テキトーに仕事するか」か、「可能な限りサボる」くらいの選択肢しかない。
なので他の会社に転職するか、寿退社することになる。

 

3.結婚:自分の意志に関わらず、夫や、義父母の意見に負けてしまうこともある
戦えばいいのだが、夫が自分の味方にならなかった場合は、まぁダークサイドに落ちることになる。
加えて、「〇〇の奥さん」「うちのお嫁さん」「〇〇ちゃんのママ」のような呼ばれ方をするようになるので、姓どころか、名前まで見失う事もある。
「それくらいのことで」と思うかもしれないが、これが続くとアイデンティティは崩壊する。一種のゲシュタルト崩壊
だって、学校では「男女平等、女だからといって手加減はしない。這い上がれ」と教えられて育つのに、結婚した、というだけで人権がなくなるようなものだからだ。


4.婚前貯金を守ることが難しい。=いざという時に逃げ出せなくなる。絶対死守すべき。夫、夫親族が信頼できない時は、銀行の貸金庫を借りるくらいの勢いで死守してほしい。

 

5.パートだろうと非常勤だろうと、フルタイムだろうと、妻が働くことに対してむきになって「家事レベルを下げるな」と言う男性は多い。
今なら、「それだけ言うなら自分でやってみろ」と言うだろうが、当時は言えなかった。
これを言えるようにするためには、やはり専業主婦になるのはリスクが高いので、少しでもいいから働いておいた方がいいと思う。


6.介護が始まった時、どうしてもフルタイム、パートタイム、専業主婦、と、動きやすい人に役割を振られる。
特に介護される本人が「家族に世話されたい」という場合。
元気なうちに、親などとは話し合っておいた方がいい。


7.パートナーに浮気されたら:経験から言うと私は離婚一択を勧めてしまうが、稀に再構築できる場合もある。
自分たちがどちらに該当するかは、よーーーーーく、冷静に見た方がいい。
この時点で自分に仕事か、貯金がないと「不本意ながら再構築」という負のループに入るので注意。


8.義実家には気をつけろ:義実家がどんなに優しかろうが嫌な人だろうが、最終的に自分のことを「嫁」と思う家庭ならば警戒しておいて損はない。

 

気が向いたら、残り半生のことも書きます。
まだまだ波乱万丈です。(いまだに・・・)


注意してほしいのは、私の境遇は「そこまで異常」ではない、なかった、という事。
今20代、30代の人の境遇は変わっていてほしいと本当に思うが、女にとって「ジェンダー」というのは死活問題が含まれる。


男が言う「ジェンダー」と、女が言う「ジェンダー」は違う、と私は感じている。

 

少なくとも、私の「ジェンダー」「男女平等」に、「恋愛」って要素は入らないのだ。
「生き方」であり、「進む道」であり、「死に様」でもある。
愛だの恋だの、果てはモテだのってのは、ジェンダーとは全く関係はない。
そんなのはただ、人間的に魅力がある、ない、というだけ。モテようとモテまいと、それだけで死ぬ事はないが、仕事がなければ飢えて死ぬ。

さて、どちらが大事?