氷河期初期世代おばはんの日々うらうら

就職氷河期初期世代のおばさんが時事問題に思ったりすることや、日々のあれこれ

女の私が感じる「性別違和」と「役割違和」

またしてもLGBTに関する事なのだが、色んな資料やら記事、インタビューを見ていて、私は何を見てもどこか「しっくり」来ないところがあった。
そもそも、LGBに関してはそれは個人の好みなので、「あって当然」というか、世代的にもBLが隅っこでひっそりコソコソと生まれてきた頃から、今のように「あって当たり前」のように店頭に置かれるようになるまで見ていたので、特段、何というかビックリもしないし、うんうん、そーだよね、だった。

 

BLと並べてしまうのは失礼なのかもしれないが、所謂男色文化は日本史でも世界史でもまま出て来ることだし、私は世代的にBoys Loveになる前のヤオイ文化から知っているので、何というか、かなり「日常に近い」ものだ。
それもあるのか、LGBに関しては「背の高い人が好みだなぁ」とか、「長い髪の女性が好きなんですよね」とかとほぼ同類の、「こういう人が好み」と同じカテゴリに入るものなのだ。私にとっては。
Bに関して言うと、「好きになった人がもし女性だったとしても、多分私はそのまま好きになるだろうな」と思っていた。
親友なのか、それとも「好きな人」なのか、判明しなかった関係の人もいる。

 

しかし、トランスジェンダーに関しては何かがモヤモヤしていた。
性別違和、性同一性障害、は理論的に分かる・・・とは思っている。
その違和感を感じたまま、生きるのは大変だろうな、ストレス多いだろうな、というのも理解できる。

 

新宿で遊んでいた頃に、昔風に言うニューハーフの人に会ったことも何度もあるし、何なら行きつけのバーのママさんがニューハーフの方のところが一番安心して飲めたし、楽しかった。

 

それでも、オールオッケー!そうだよね、当たり前だよね!!!と言い切れない部分が心の中で澱を作っていたのだ。
自分の中でも言語化出来ていなかったから、モヤモヤしたまま、このモヤモヤは何だろう??などと考えていたのだが、ふと、気付いた。


MtFと呼ばれる人達は、本当に私達と同じ虐げられる性の女性になりたいのだろうか?それとも、男性特権を持ったまま、女性として扱ってほしいと言っているのだろうか?」
という疑問と・・・
「あれ?この項目だと、私って女でいいのかな?」
と感じたからだ。

 

トランスジェンダーの中でもFtMより、MtFに関してモヤモヤしていたのはこれだった。
私自身、本を読んだりネットで調べたり、海外のMtF、またはFtMもしくはノンバイナリーという人達のインタビューやドキュメンタリー、本人が開設しているYouTubeチャンネル等見て学んではみたが、どうもしっくり来ない感は残った。


私はむやみやたらとトランスジェンダーを批判したくない。
しかし、シス女性の一人として、何故この性自認などがしっくり来ないのか、を書いてみたい。
出来ればMtFの人と話せる機会があったとしたら、ちゃんと話をしてみたいと思っている。
その上での今回の投稿になる。


「性別違和」と呼ばれる状態で生活することが非常に苦痛である。
これは、解剖学的な性別と自身の感覚が相違しているというケースで、人間の心というものが千差万別な事を考えると、こういう事で苦しんでいる人がいるのだろうな、という事は理解できる。
しかし、この「性別違和」を調べて行くと、ちょっと?となる部分もある。
MSDで判断基準とされているものを見ていくと、私はどっちなんだ?と思う部分が多々あるからだ。診断に使われるポイントと、私の状態を並べてみる。

 


<診断に使われる性別違和のポイント>
1 異性の服装を好む: 私はこれは非常に強かったが、どちらにしても着ているものがお下がりだったので、新しく買ってもらう、という選択肢がなかった。選択肢があったら多分、私はどちらかというと男児向けの服を選んだだろう。

2 自分は反対の性であると主張する: これはなかった。

3 目覚めた時に反対の性であったらよいのにと思う: 子供の頃はなかったが、10歳以降はあった。

4 異性が行う遊びや活動に参加することを好む: 結構あった。女児用のオモチャや遊びよりも、超合金ロボを欲しがったり、田舎育ちだったので木登りや山登り、沢でザリガニを釣ったりする方が多かった。そうすると、自然と遊ぶのは男児と遊ぶことが多かった。本気でケンカして投げ飛ばしたこともあったなぁ。

5 自分の性器に対して否定的な感情を抱く: これはなかった。


これらは主に幼少期から感じていくものとなっているが、成人してからこのポイントに加わるものは下記のようになる。


1 自分の性的特徴をなくしたいという強い欲求(第二次性徴を止めたいという強い欲求): 自分の第二次性徴に嫌悪感はあったが、なくしたいとは思わなかった。

2 自分のジェンダーアイデンティティと一致する性的特徴を強く望む: ここは悩む。背が高くなりたいとか、体を鍛えたいとかは強くあったのだが、この時点で「自分は女性ではない」とは感じていなかったように思う。ただ、男性にある特徴を求めた部分はかなりあった。

3 異性(または他のジェンダー)になりたいという強い欲求がある:欲求はあったが、それが「性自認」からくるものなのか、女だから、という事で仕事上で損をしたり、明らかにスタート地点から月給が違ったりの差別を味わった後に「男でありたかった」と思ったのかが不明。

4 別のジェンダーとして扱われ、人生を送りたいと強く願う:これも、願いはあったが、それが「性自認」なのか「女性で損をしたから」なのかは不明。

5 別のジェンダーと同じように感じ、物事に対応しているという強い確信がある:これは微妙。私自身は自然にしているつもりだが、私をよく知る人からは「相変わらず男っぽいねえ」と言われることはいまだに多々ある。

 


上記の項目はMSDから引用したものだが、それに上記のように「私」を当てはめていくと、あれ?となる。
そして性別違和の場合、上記の「全て」が当てはまらないといけないという事ではなく、「上記のような感覚を感じていることが多い」という。

 

そうすると、「私」はかろうじて性自認が女、と思っているだけで、ギリギリ性別違和ではない、という事になってしまう。
何だか、ここが曖昧に感じられる、「心は女」「心は男」の部分なのだろう。


性別違和から性転換した人の中には、性転換してみたら「やっぱり違った」という事で再度元の性に戻る人もいる。
日本でもいるし、海外でも存在する。
そういう事例を考えると、確かに最初の性転換で生殖能力、性器を全て変えてしまうというのは悲劇的な結果をもたらすことにもなるのだろうか?とも思うが、敢えてそこにハードルがあることで「簡単な事じゃないですよ。それでもやりますか?」という
メッセージはあるのかもしれない。


だとすると、もしかしたら性別違和の方々の悩みの中で、他の方法で解消していける部分はあるのだろうか?とも考える。


例えば、「男の子はズボンで、色はブルー」とか「女の子はスカートで、色はピンク」という大人が押し付ける刷り込みをなくしていくことではいけないのだろうか。
男児がスカートを履きたがったら、履かせてみる。女児がズボンを履いている事は結構あるのだから、「履いてみたいんだって」と、もっと気楽に性別を押し付けない世界は出来ないだろうか?
色も最近はブルー、ピンクと決めつけるのではなくなっているので(ランドセルの色のように)、その子供自身が「これがいい」という色を選ぶことではいけないのだろうか。


職業だって、大企業はどうしても「一般職」と「総合職」に分けたいようだが、それは性別ではなく、転勤出来るか出来ないか、とか、海外赴任出来るか出来ないか等で分けることは不可能ではないだろう。
男性だって転勤したくない人はいるし、逆に女性で転勤したい人もいるだろうし。
またその入り口で給与差があったとしても、査定などの時に「妊活したいので、総合職から一般職に」とか、「これから育休取るので一般職に」、または「子供の手もだいぶ離れたので総合職に」と、社内で行ったり来たり出来ればいい。
大事なのは「どう働きたいか」だし、それは個人個人で変わってくる。


STEM領域に女子学生を、という動きがあり、そこに「男性差別だ」との声も上がっているが(今までの状況を是正しただけなんだが)、それなら「全部で100人取ります、20人は男性、20人は女性、後の60人は成績と面接結果で変わります」でよくないか?
どうも男性は少しでも「女性優遇」と思うと腹を立てるようだから。


もし、本人含め「性別違和がある」と思っている中の、「日本での男女の決めつけ」が根っこになっている部分があるのなら、社会面の是正を考えてもいいのではないだろうか。
そしてそれに伴って、これまでの「性別」でがんじがらめになっていた部分を、出来る限り取っ払ってしまえばいい。
(女性スペースの話ではない)


例えば同性婚。選択的夫婦別姓。賃金のギャップ。職業差別。等など、改善できる点は山のようにある。
それらの条件が整ったら、「違和感」は自分の性別ではなく、「社会が押し付けて来る性別」だった、なんてケースも出て来るのではないだろうか・・・?