氷河期初期世代おばはんの日々うらうら

就職氷河期初期世代のおばさんが時事問題に思ったりすることや、日々のあれこれ

一刀両断系の「解説」動画等について

私は「ながら」をする時に、テレビ番組ではなく、最近ではYouTubeを流しっぱなしにしていることが多々あるのだが(家事しながらとか、趣味の縫物しながらとか猫と遊びながらとか)、最近、ふと、「解説系」のチャンネル増えたなーと思うようになった。

 

今までも「ゆっくり解説」とかはあったが、それ以外に、例えばひろゆき岡田斗司夫山田玲司ホリエモン精神科医や心理学者、歴史学者、そういった人たちの「今の〇〇を解説する」とか、「質問に答える」とかが増えた気がする。
それとも、私が偶然おススメに上がってきた何かでそういったジャンルを見たことで、継続しておススメに上がってくるようになったのか?
その辺はまぁ、正直分からない。

 

私は読書も乱読(ジャンル問わず、気になったものは何でも読む)だし、映画もなんでもあり(乱見とでもいうのかな)、旅行先ですることもなんでもあり(特に超グルメ!とかでもないから、その土地で面白そうなところ、興味を持ったところに行くという
感じ)なので、YouTubeに関しても突然ある日はクラシックチャンネルを聞いていたり、香港映画の「名アクションシーン」を見ていたり、アニメの「このシーンってあるかなぁ、なんだっけ」を探していたりするので、YouTubeアルゴリズムも、私に何かを「おススメ」するのはなかなか難しいと思うのだが、おそらく何かでそういうチャンネルを見たのだろう。
なので最近、おススメにそういう「解説」が上がってきて、興味があったらそれを流し聞きする、という感じになっている。

 

が、今までこんなに大量にあったのかな。


流しっぱなしにしておくには、その人の「声」自体が耳障りがよければ(というか、悪くなければ、か)丁度いいのだが、ふと真面目に聞くと、随分乱暴だなぁと思ったり、いやいやそれは男からの目線だけでしょ、とか、それはさすがにオタクも怒らんか?と思ったりと一人で心の中でツッコミを入れている。
私はほぼそういったものは「BGM」として脳内変換しているのだが、例えば自分で様々な本を読んだりせず、様々な人と話をしたりもせずにこういった解説を聞いてしまうと、「これこそが正しい!!」となってしまうのかもしれないな、とも思う。


歴史解説とか、ロケット研究について、のような解説ですら、「その時点で」分かっていることがベースになっているし、ディレクターや放送作家の思想が入ってくる場合も多々あるので、鵜呑みにしない方がいい、ということも分かっている人と分かっていない人がいるだろう。
それこそ、同じ事件に対しても違うテレビ局の、違うコメンテーターの反応は違ってくるので、「これが正解」というのはなかなかない


本を読んできた人なら、例えば同じ「エジプトのピラミッド」の本でも、解釈が違っていたりするのは、何冊か読んでいくと分かってくる。
ピラミッドはどのように作られたのか、も、著者によって様々な書かれ方がするし、ある人はナイル川との距離に集中して書いていたり、ある人は「どの石から積み上げていくと、現在のピラミッドの形になってそれが何千年も保たれるか」を書いていたりする。(力学的に)


こういった、ずーーーーーっと自説を繰り広げた最後の最後に「諸説あり」とするのは、一種のスタイルであり、それが正しくもあり、またある意味「様式美」のようなものだと私は思っている。
分かりやすいのは切り裂きジャックは誰だったのか、とか、聖骸布は本物か否か、とか、邪馬台国はどこにあったのか、のようなものだろう。

 

読み手も、「諸説あり」ありきで読むし、「この人はこの結論の人なのか」とか、「新しい科学が出て来たなー」とウキウキしたりもする。
(特に聖骸布などは、放射性炭素年代測定という新たな科学的方法が用いられるようになったり、微細な繊維から、その繊維がどこで育った植物から織られたものなのか、という技術が開発されたりとしているので、本が書かれた年代によって内容が本当に変わっていっているのが面白い)


しかし、そうやって「自分で様々なところから吸収してきた知識」や経験がない場合、所謂著名人が「これこれこうなんですよ」と断言してしまうと、「そうなのか」とそこで思考停止してしまうんじゃないかな、と私はちょっと危惧している


コロナ(COVID-19)にしろ、マスクにしろ、少子化にしろ、LGBTQにしろ、先日起きた長野立てこもり事件にしろ・・・なんにでも、一刀両断で「あれはね、こういうことなんですよ」と言い切れるならそんなに簡単な事はない

 

何かの現象が起きたことに対して、何故その土地で(場所)だったのか、何故その人(達)だったのか、何が動機だったのか、他の方法が「取れなく」なったのか、それとも他の方法を「取りたく」なかったのか・・・・そういった様々なものがミルフィーユのように重なって、一つの事件が起きたり、社会現象が起きたりする。

 

勿論、最終的に「何が一番大きな要因だったのか」という一種の結論は導くことは可能だが、人間には心がある限り、どこまで行っても「本当にそうだったのだろうか」という謎は残るものだ。
それを、「これこれということなんですよ」とスッパリ断じてしまう言論が多すぎやしないだろうか??


・・・なんてことを、私はゆっくり解説を聞きながら、考えてしまったのである。