氷河期初期世代おばはんの日々うらうら

就職氷河期初期世代のおばさんが時事問題に思ったりすることや、日々のあれこれ

主体性が見えない容疑者~長野立てこもり事件

長野県で発生した猟銃立てこもり事件。
容疑者は市議会議長の息子。31歳。


動機に関して、おそらくこれからコミュ障だのなんだのと出て来ると思うが、私はちょっと他に気になる点がある。


容疑者は猟銃の所持資格を持っていた。
場所は長野県中野市。クマが出没するエリアであり、そのために所持資格を持っていたのだろう。
猟友会に属していたかどうかは分からないが、いざという時に使用するための猟銃が、今回は違う目的で使用されてしまったということだ。
しかし、猟銃の所持資格を持っていたということは、資格を取った時点では精神疾患は認められなかったという事だろう。


日本にも、猟銃や短銃、または日本刀等、「銃刀法」で規制されているものの所持資格を持っている人は案外いるのだ、ということを案外気付いていない人が多いのかもしれない、と思ったのが気になる点の一つ。


私は知り合いに資格保持者がいるので、話を聞いて「そんなもんなのか」と思い、その人はちょっと変わった経歴は持っているが一緒にご飯を食べに行ったり、お互い住んでいる地方が違うので稀に出張や旅行などでその方面に行くと、連絡して「飲もうよ」と
なる感じの「一般人」なので、意外なところに資格保持者がいることは知っていた。

また、これは偶然だが、かつて住んでいたところのご近所に日本刀の研師をやっているお宅があったので、へぇぇと思ってそのお宅の前を通って通学・通勤していた事もあった。
確かになかなかの立派な門構えの日本家屋ではあったが、数回、そのお宅の方が玄関先の掃除をされていたりした時に会釈くらいはしたことがある。
別に和服を着ているわけでもない、普通のおじいさん、おばあさんだった。
眼光鋭く、という事もなく、本当に普通のおじいさん。ペコリと会釈したら、あちらもペコリ。
特に会話したことはなかったが、そのお宅の門に「刀剣研ぎ」なんちゃらという看板がなければ分からなかっただろう。

だが、今考えるとそのお宅の中には、当然のように日本刀があり、また研いでほしいという事で当然のように持ち込まれるものもあっただろう。
(何とかしてお話するようになっておいて、見せてもらえばよかった)

そう、意外なところに資格保持者はいるし、意外なお宅で保管されているものなのだ。


また、銃を撃ったことがあるという人も、結構いる
最近はコロナの影響や経済的理由から海外旅行に行かない、行けない人も増えているが、まだ円が強かった頃は韓国やハワイ、グアムなどに旅行に行った時に射撃をしてきた、という人は割といる。
私もその一人だ。
私は短銃(拳銃、かな。グロックとかルガーとか)を数種類撃ったことがある。私の場合は屋内の射撃場だったので固定されている的を使って撃ったが、屋外の射撃場、特にその時にライフル系を選んだ人は、動く的に向かって撃った人も多いだろう。
お皿などを投げて、それを撃つ感じだ。
拳銃にしろライフルにしろ、女性の場合は握力や反動を受け止めるための筋肉、腕力を考慮してそこまで大きな口径のものは撃たせてもらえないが、男性ならほぼ全ての種類を撃つことが出来るだろう。
(反動が受け止めきれないか、上手く逃せないと脱臼したりするためだ)


私は普通の女性よりは腕は鍛えていたが、それでもやはり45口径は撃たせてもらえなかった。残念。
しかし38口径までは撃つことが出来た。
(一緒に行った友達は38口径でもつらかったということで、途中で22口径に変更)

そういう海外の「射撃場」では、実弾射撃が出来る代わりに、例えば屋内なら拳銃自体が台に固定されていたりするので、持ち出すことは不可能だ(当たり前だが)。撃ち終わった後の薬きょうも持って出ることは出来ない。
その状態なので、射撃場で撃つことに免許はいらないし、特に準備するものもない。


しかしそうやって実弾を撃ったことがある人間が結構いる、ということは、例えば何かの事件が起きた時に目の前に拳銃が転がってきた、狙える位置に犯人がいる、となったら、反射的に撃ってしまうかもしれない人がいる、という意味でもあるのかもしれない。
(犯人に当てられるかどうかは分からないし、下手したら犯人に当たらず、周りの人に当たってしまう確率の方が高いかもしれないが)

なので、「日本は銃もないから安全だよ」という神話も、もう崩れているのではないか、と思っている。
これが一点。


そしてもう一点、気になっているのが、この容疑者が警察官2名を殉職させておきながら(報道では、笑いながら撃ったとも書かれている)、自分から投降に至った経緯だ。

 

この事件は「立てこもり」と言われているが、実際、容疑者と一緒に室内にいたのはどうやら母親と伯母のようだ。
母親は県警と連絡もしており、母親と伯母、両名共に怪我もしていなければ、拘束されていたわけでもないようだ。
実際、母親は容疑者から猟銃を取り上げ、警察に渡そうと外に出て、保護されている。
伯母は、その数時間後、解放されて外に出て、保護。


そして一番奇妙なのが、室内に一人になった容疑者は朝方、父親に電話をかけて「どうしよう」と相談している、というのだ。


室内では、母親が「一緒に償おう、警察に行こう」と説得したが、容疑者は「絞首刑はすぐ死ねないから、そんな死に方は嫌だ」と拒否。
母親と伯母を解放し、一人きりになってかなりの時間が経ってから、父親に電話して「どうしたらいいんだろう」と聞く。


一方で、自分がナイフで刺した被害者が心肺蘇生を受けているのを「笑って」見ていた。
「殺したいから殺してやった」
パトカーが到着すると、「撃つぞ」と笑っていた。そして、実際撃って警官2名を射殺した。


ひどく違和感がある。
一方では「パパ、ママ、僕どうしよう」という子供のような反応。
一方では「殺したいから殺した」というサイコパス的な反応。しかも、何故殺したいのか、というのは「ぼっちだとからかわれていると思ったから」。


容疑者にとっては、家族以外は「血の通った人間」という意識を持てなかったのだろうか?
また、「ぼっちだとからかわれている」と思い込んだように発言しているが、出て来る情報としては親しい友達はいなかったようだ、とか、地域になじめていなかった、とか。それが本当だとしたら、可哀想だが「ぼっち」なのは事実であって、事実を指摘されたのが悔しかった、という事になるのだろうか?
本当は友達が欲しかったけれど、どうすれば友達って作れるんだろう?ということでずっと悩んでいたのだろうか?


ただ、一つ分かるのは、両親がこの容疑者を大事に思い、心配するあまり過保護になっていた可能性が高い、という事かもしれない。
東京の大学に進学したが、「なじめなかったようで」、母親が父親と話して大学を卒業するか、中退するか決めなさいという事を促している。
父親との話の結果、中退して地元に帰ってきて、父親は容疑者の将来のためにと果樹園を容疑者の名前に変え、ジェラート店を始めたりして全て準備している。
母親は、ジェラート店が繁盛するようにと、フルーツカッティングを覚えて切り盛りする・・・。


それは、容疑者が自分で望んだ道だったのだろうか?


もし、東京の大学生活が苦しそうだった時に、「話し合いなさい」ではなく「つらかったら連絡しなさい」くらいで、本人から「つらいから、一年くらい休学していいだろうか」と言ってきたり、「中退したい」と言ってくるのを待っていたら、どうだっただろう。
つらいながらもなんとか在籍し続けて、卒業していたら、どうなっていただろう?
地元に戻ってきた時も、果樹園を継がせる準備を「先に」するのではなくて、「お前はどうしたい?家業を継ぎたいか、こっちでまず就職先を探してみるか?自分で考えなさい」と伝えて、後はとりあえずは見守っていたとしたら?

 


私には、容疑者の主体性のなさが逆に怖いというか、スポイルされてしまっていたのかもしれない、と感じるのだ
親が先に先にと準備をして、レールを敷いてしまう。
レールに乗っていたら安全な事も、それが「真っ当」に見えることも分かっているので、したいかしたくないかも分からない状態でレールに乗ってしまう。
だが、そこに本人の希望や、こういう人生にしたいというような目標、または「とにかく精神的に疲れたから、1年くらいほっといてくれないかな」という気持ち、そんなものは入っているだろうか??

 


だから過保護はよくないんだ、と一刀両断することも難しい。
ある程度はレールが見えている方が動きやすい子供もいるだろうし、大人になってからも「普通の人と同じようにしたい」と思う人は多い。
だからこそ大学に行き、就活をして、企業に入る。
それは世間的に見て、「一番普通のルート」だからだ

 

これは程度問題なのかもしれないが、同じ親の子、兄弟姉妹であっても個々の性格でレールが必要なタイプもいれば、レールから外れることを望む子もいるし、レールに乗れない子もいる。
それでも本人の主体性がある程度あれば、親がどうしようと、どう言おうと「いや、俺はこっちに行きたいから」「私はそうしたくない」となって、親子で衝突する瞬間を積み重ねて、その親子の形(ようするに、親子、ではなくて成人した大人同士の関係として)が新しく作られていくのだと私は思っているが、容疑者の場合はその「新しい形」を形成することが出来なかったために生まれてしまった悲劇なのだろうか。


何となく、この立てこもり(と言えるのだろうか)事件は、ささくれのような引っ掛かりを残すものになりそうな気がする。