氷河期初期世代おばはんの日々うらうら

就職氷河期初期世代のおばさんが時事問題に思ったりすることや、日々のあれこれ

氷河期世代の「名誉」とは。<昏いです>

先日、何とはなしにひろゆきの切り抜き動画を流しっぱにしていたら、「就職氷河期世代、つまりは団塊ジュニア、ロスジェネ世代と言われる人たちはほぼ確実に無策のまま切り捨てられる。現在の高齢者は今まで通り守られ、少子化対策で若手世代は守られることになるが、その中間にあたるこの世代は本当に不遇のまま終わるだろう。でも、どこかの世代がその損の受け皿にならないと日本の経済や政治の舵を切りなおすことは出来ないから、不遇を背負ってくれた世代として、名誉だけは手に入るかもしれない」というような事を言っていた。

 

ひろゆき自身も1976年生まれなのでロスジェネ世代なわけだが、彼のように枠にしがみつかずに「恐れず突き抜けた」人以外は確かに「昔のように年齢と共に給与があがる」という事もなく、「雇用が安定している」わけでもなく、「税金だけが増えて手取りは減るばかり」であり、「老後の社会保障制度も見通しは暗い」という人生を歩んでいる人が多数だと思う。

 

勿論、その中でも新卒で大手に入社出来たり、何とか転職で年俸を上げることが出来た人はいるが、人口比で考えた時にどちらが多いんだろう、と思うと、「何とか逃げ切れなかった人達」の方が多いのではないだろうか、という肌感覚はある。
そして、私自身は時には「逃げ切った」と思えたり、時には「逃げ切れなかった」と思ったりのシーソー人生だ。


最近自分の周りで不幸があり、年上の方々の話を聞くことが増えていたのだが、数年の差で「こんなにも人生が違うのか」と感じさせられた。
10歳も違わない、いや、5歳も違わないのに「両親とほぼ同じような人生を歩んでいる人」と、結婚・離婚を挟んだから余計にという面はあるが、正規と非正規を行ったり来たりして、日本企業と外資系を行ったり来たりしている自分。
能力を非常に買われたこともあるが、逆に切り捨てられたこともある自分。
黙って我慢して、上のいう事を聞いていればいいか、ともならず、黙っていたら「得になることは全て誰かに取られ、自分にはパイの切れ端すら回ってこない」自分。


そんな「数年の差」、まさに運命のいたずらと言えるような、ルーレットで玉がコロンと一枡転がってしまったがために赤と黒が変わってしまったような感覚。


通夜、葬儀、諸々を済ませながら、何とはなしにそんなことも脳裏に浮かんでいた。
そんなときにふと聞いた、「名誉だけは手に入るかもしれない」という言葉から、私はもう少し先のことまで頭が勝手に考えてしまったようだ。


名誉って、なんだろう。


これが氷河期世代の悲しいところなのかもしれないが、「苦しんで、苦しみぬいて死んでいっても、自業自得」と言われるだけなのではないだろうか、と思ってしまうのだ。
「何か」をしない限り、ここに生きている存在とも思ってもらえないような、存在していたとも思ってもらえないような、何百年も後になってから、「この世代の人達は苦労したんだなぁ」と言われれば御の字?と思ってしまうような。

 

私達、氷河期世代で「勝ち抜け」なかった人間はそこまで「人の情なんてない」と「知って」しまっているのだろう。

それならば、おそらくこのまま不遇で終わる世代の我々がせめて「名誉」を手に入れるには、どうすればいいのだろうか?
ここからは、完全に卑屈路線、自虐的に考えが進んでしまっただけの文章として読んでほしい。

<ここから閲覧注意です>

 

 


1.氷河期世代は、これまで通り自力で生活し、枯渇したら住んでいた住居、及び家具等の処分をある程度行った後、どこか関係のないところで静かにその生を終える。(行旅死亡人となるので、親戚縁者にも迷惑をかけたくない場合には身元特定につながるものを全て破棄した上で、海外で亡くなるのが望ましいかもしれない。但し、パスポート等が犯罪に使用されないように、事前に焼却処分するなりの対策を講じておく。)


万が一、国内もしくは国外で身元が特定されてしまった際、その者が氷河期世代であったなら行政が遺族に請求する物があったとしても、そこだけは行政が負担するものとする。(でもさすがに、人に迷惑をかけすぎる電車への飛び込みなどは避けよう)


→ 成人後、約30年にわたって「普通に生きる権利」を得てこなかった世代になるので、逆に最後まで「普通には死なない」というようなプライドは、本人の中で保たれるだろう。
ろくな財産はないだろうが、自分一人が抜けることで、もしかしたら親の世代の遺産相続等の際、兄弟姉妹、または相続権のある傍系の誰かが救われるかもしれない。そう願って、しかし自ら貧乏くじを引く行為になるので、「相続放棄」という形式ではなく、
「失踪してから7年経過=失踪宣告」という形で自分で自分を納得させる。
→ この人数が増えていくことで、「氷河期世代レミング集団自殺」となって、ずーーーっと先の未来に「ハーメルンの笛吹き男」のような寓話が生まれるかもしれない。
こんなことでしか足跡を残せないとしても、ただ生まれて貧乏のままで、幸せでもなく、ただその日を生きるだけなら、こんなちっさな足跡でもいいんじゃないか?
非常にネガティブなプライド保持だが、実際、氷河期世代が手に入れたのはこんなちっぽけなプライドだけかもしれないんだから。

 


2.氷河期世代の相当数が、正社員になれていたとしても中小企業。多くは非正規として働いているであろうから、これが何事もなかった世代の賃金と比較して、「政治が間違っていたための逸失損益」として、氷河期世代生活保護を申請した場合は、もしその時点で生活保護という制度がなくなっていたとしても、「氷河期世代生活保護」として現時点、2023年時点の生活保護を受けられるように特例措置を設け、救済策とする。

→ これ以上の「無敵の人」テロの発生や強盗致傷事件の発生を防ぎ氷河期世代の絶望感を緩和するため。(但しこれという財源がどうなるか分からないので、申請ベースとする。これには、生活保護には頼らない、というプライドをどれだけの人が捨てて申請してくるか、というプライドと生命を天秤にかけるものとなる。そのため、保護を受けた時点から、微細な犯罪であっても犯罪を犯した時点で、執行猶予なしの実刑とする)

→ とにかく、犯罪を予防し、日本の治安を守るため。

 


3.これは一番過激で、しかし「名誉」につながるかもしれないものだが、「氷河期世代の中で、本人が希望した場合、有事の際の人間の盾として行動することを誓い、登録し、そしてその代わりにベーシックインカムとして規定された金額を月々受け取る」ということ。
今、台湾有事と言われ、日本は中国から、北朝鮮から、そしてロシアからも狙われている国だ。
どんなに自衛隊を増強しようとも、9条がある限り、自衛隊が本来の「国防」活動をすぐに行う事は難しい。

その時に、「本人が自由意志で」国を守るために人間の盾となり、時間稼ぎをするようなことが可能であれば、それでいいのかもしれない。
これは完全に「本人の自由意志」であることが前提で、簡単に言うと「自分がベーシックインカムをもらって生きながらえている間に有事が起こるか否か」の究極の天秤をかけることだ。
有事が起こらず、ほそぼそとでも暮らすことが出来れば「逃げ切り」。

 

人間の盾はジュネーブ条約では禁止されているが、日本は結構色々な国連の規定を破っている。
分かりやすく、また氷河期世代の中でも女性がこの「規定破り」のおかげで苦労することになっているのが、性差別撤廃、男女・性的マイノリティの格差の是正が「いまだに」改善されていないことだ。
そもそもが国民の半数である「女性」を、「産む機械」以外では価値を認めなかった国と言ってもいいのかもしれない。(今の少子化対策だって、似たりよったりだ)
私個人の気持ちならば、「国が認めなかった命だけど、私がこうして立っていることで一人でもひるむ敵国兵がいるのかもしれない」のなら、そしてその間に一人でも多くの子供が逃げることが可能なら、人間の盾になることに未練はない。(高齢政治家とかは守りたくはないがな)
飼い猫のことさえ何とかしておけば、別に守りたいものもない。持っているものもない。

自分の命を、有事の際に散らす覚悟を持った「義勇軍」として使い、それまではベーシックインカムをもらう。
勿論、登録後に結婚したり、子供を引き取ったりして状況が変わる人もいるだろうから、年単位でこの「意志の確認」をしていけばいいのではないか。ドナー登録のように。
それによって、「短期間お金をもらって、取消して、またもらって、また取消して」というような行為は防ぐことが出来るだろう。
そしてこれが一番、「その時」に「名誉」となるのではないだろうか。

 


私が10代の頃に読んで、いまだに心にある存在がある。
コルベ神父。
ナチス政権下で収容所に送られ、一人の同じ囚人の代わりに自分が犠牲になると名乗り上げ、餓死牢に送られた神父だ。
彼の最期は、遠藤周作の「沈黙」をも思い出す。


どうせこれだけ苦労しても、思っていた人生は送れず、既に50歳を超え、ここから先も苦労する事は目に見えている。
それが私自身であり、また、同じように感じている氷河期世代もいることだろう。

守りたいものもなく、自分自身に価値があるとも思えず、次につなげていけるものもない。ロストジェネレーション、とはよく言ったものだ。日本社会の中で、この年代だけがスポンと、どこに所属しているか分からない状態になっている。高等遊民ならぬ、底辺遊民になってしまっているのだ。
そもそもがまともな物も食べてきていない。体力ももうない。
もう少し年を取れば、病気も増えていくだろう。
それならば、「日本」という国のため、というよりも、「この地で生まれる次の世代のために」出来ることがあるのなら、と思ってしまう部分が、年を重ねるごとに強くなっている気がする。


そしてそれが、最後の私達、氷河期世代がつかみ取れる「名誉」であり、「生きた痕跡」なのかもしれない。