氷河期初期世代おばはんの日々うらうら

就職氷河期初期世代のおばさんが時事問題に思ったりすることや、日々のあれこれ

少子化、子育て、分業、年齢差・・・余裕のない日本

「異次元の」少子化対策の財源をどうするか、がまだまだまとまらない。
おかしいなぁ、普通にどこに道路作るからとか、教育機関にどれだけとか、戦闘機買ったり海外に援助したりってことに「財源は~」って話しは出てこないんだけど、少子化対策の時は財源で議論が止まっちゃうのね。
少子化対策、異次元の~と言われているが、現時点で凡そ3兆円規模と言われているけど、国税支出は予算で107兆以上なんだけど、その使い道に関しては事前には知らされてないんだけどなぁ。

 

・・・なんて、意地悪な見方をしてみる。

 

ま、税金の使い道の中に世界でも異常に高いと言われる国会議員歳費があるから、ついつい意地悪な見方をしてしまうんだけど。
(財源を~~の前に、少なくとも文書通信費はネットのある今、絶対削減できるだろう。月100万円、領収書不要、内容開示不要、非課税なんておかしすぎるっしょ。議員としての移動費が、って言ったってそもそも歳費(国会議員の給与)で年俸2000万円を超えるんだから、自分で出せっつーの)


この状態を見ていると、現在進行形で子育てしている人が「子育て罰」と感じてしまうのは当然だよなぁ、と思ってしまう。


給与は上がらない(共働きでも)、税・社会保険の負担は増える、公共機関では身の置き所がない、子供の声がうるさいと集合住宅では苦情を言われ、公園は「子供がうるさいから」となくなったり、または公園はあっても禁止事項の多さに子供が遊べることが少ない・・・
どこでどーやって子供育てればいいんだよ、と言いたくなる気持ちはすっごく分かる。
その挙句に、「最近の子供は筋肉の発達が~~」とか言われても、「じゃあどうしろと!?」とキレたくもなるだろう。


私は、自分自身が地方で育ったという事もあって、所謂遊具のある「公園」で遊んだ事はあまりないのだが(周りに空き地が結構あったし、山もあったし・・・)、今思うと結構危ない遊びしてたな、とは思う。
かすかな記憶で、誰かしらのお母さんや、おじいちゃんとかおばあちゃんが見ていたような気もするが、木にも登ってたし、小川の石をひっくり返してザリガニ探したり、ハードなかくれんぼをしたりしていたから、全ての子供を注意深く見ることは無理だっただろう。
私もどこかから落ちて擦りむいたり、コケたりと小さなケガはしていた。
誰かが骨折した・・・というのは記憶にないので、そこはその場にいた大人が上手く誘導していたのかも?


そうやって昼間思いっきり遊んでも、夜も親に「寝なさい!」と言われていたのを思い出すと、子供のパワーってすごい。
これが、日中駆け回ることも出来ず、ワ―キャー走り回ることも出来ないのなら、自宅でも騒いでしまって当然だと感じてしまう。
しかしそれが集合住宅だと、「子供がうるさい」と張り紙されたり嫌がらせされたりするのか・・・となると、やっぱり「いや、大人が我慢しようよ」とも思う。
確かに昔より子供が起きている時間が遅くなっているが、そんなのを懐古趣味的に言っても仕方がないので、理性がある大人の方が我慢した方がいいと思ってしまう。

 

今住んでいるところは小さな子供がいないが、前に住んでいたマンションは結構若いご夫婦がいらしたので、子供の声はしていた。
作りが頑丈な物件だったのでそこまで足音が響くとかはなかったし、私自身も朝出て夜帰る生活だったので、殆ど気にしていなかった。
接触があるのは、エレベーターなどでお子さんとか、パパさんorママさん+ベビーカーの方と一緒になった時に、よほど自分が急いでいるとかでなかったら譲ったり、マンションの前でお子さんがなんか困ってるな、と思って声をかけたら、「カードキー持って出るの忘れちゃった」というお子さんだったりもした時とかだ。(オートロックだったのと、部屋番号を入力する場所が大人の身長に合わせて作られていたので、子供の身長だと押せなかったのだ)
なので部屋番号をその子から聞いて、カメラに映るようにその子を抱っこして、「お宅の息子さんですか?」を確認してから一緒に入って、その子を送り届けた事もある。
その子は私を覚えたらしく、それからたまにエントランスなどで会うと、人懐っこく挨拶してくれるようになった。

 

エントランスホールで子供たちが遊んでいた時もあったが、「転ばないようにね」と声をかけたくらいだ。
(マンションのエントランスホールの床ってなんであんなに硬いんだろう)


でも、それが嫌な人もいるわけで、マンション内の掲示板に「夜〇〇時以降は騒音に気を付けて下さい」などと張り紙があったこともあった。深夜ならともかく、「夜9時以降は」なんて書いてあった時には、いや、親がやっと帰ってきた時間じゃないか?と
思って、なんかなぁ、と思ったものだ。
(ちなみに、私自身も飼い猫が夜に遊びからケンカに発展し、ドタバタをやってしまった翌週に「動物を飼ってらっしゃる方は生活音に気を付けて下さい」の張り紙を貼られたことがある。何とも言えずモヤモヤしたのは勿論だ。それを言うなら、土日の早朝からかなりの物音がすることが度々あるが、こっちは黙ってるんだぞ、と思うからこそ、モヤモヤするのだ。言わないけど)


物価は上がれど給与は上がらず。
周りからは冷たい目で見られ。
「子供」の存在「自体」が異質なものとして捉えられ。
加えて仕事・育児・家事を夫婦二人のみでこなし。(分担の比率などは各家庭で違うだろうし、夫婦双方の納得度も違うだろうとは思うが)
教育費は上がる。
仕事に出るための保育園、学童などは下手したら空きがなく。
子供が熱を出した、学校からの呼び出し、などで早退したり時短を使ったりした時は快く出してくれるところもあれば、冷たいところもあり。


いやホント、「子育て罰」とは言いえて妙だと思う。


こういった「子育て」に関する問題もまた、少子化の要因になっていることは確かだが、男ばかり(しかもおそらく育児は丸投げだった世代)で話し合っていても、的を得た解決策も思いつかないだろうし、本人達も「なーんか、しっくりこないけどこんなところか」と心の中では思っているからこそ、財源どうので時間ばかり取ることになっていっている面があると思う。

 

以前の私なら、「だからこそ、主体者である現役世代の子持ち夫婦や、妊活中夫婦、これから持ちたいと思っている若手男女、子育てがある程度一段落して、日本での子育てのハードルを実感してきた」人達、もっと言えば女性を議論に参加させないと駄目だ
と言っていたと思う。


しかし、ここ数ヶ月、ほんの数ヶ月、Twitterや様々なブログ、ネット記事、友人知人の話を聞いていただけで考えが変わってきた。(それほどまでにショックだった)
どう変わったかというと、「いや、多分日本はクォータ制も使えないし、この状態から好転する事はほぼないと思う」と言う方に変わったのだ。


ぶっちゃけ、「日本で子育てしない方がいいかも」になってきたのだ。


私の今の考えがどうなったかというと、


1.あまりにも個人個人に余裕(精神的にも、時間的にも金銭的にも)がない


2.余裕がないので、閉そく感ばかりが強くなる社会になっている。


3.少しずつ、人権やジェンダー、家父長制などに対する考え方は変わっていっているが、少し進んだかと思ったら多大なバッシングが起こったりすることで、1歩歩いて2歩下がる状態になっている。

 

4.男女の分断、高齢者と若者の分断、既婚者と独身者の分断等が多すぎる


5.おそらく失われた30年の存在と、その間に非正規雇用にしかなれなかった氷河期世代の存在が、男女であっても高齢者と若者であっても、ほぼ全ての分断構造の中で「自分たちが割を食った」ということから、「少しでも得をしている人が許せない」という思想が強くなり、それに影響を受けた若者が増えている。


6.税金と社会保険料の高騰、物価の高騰から、国自体に明るい展望が見えない。また、30年前から言われている「年金はいずれ破綻するので、自分たちはもらえないのに払わないといけない」に対して、対応策が出されていない。


7.30年前から議論されてきたものが、一向に進んでいない。例えば夫婦別姓(根っこは家制度)、女性の労働を阻む問題、いまだに女性一人の決断で中絶が出来なかったり、経口中絶薬が薬局で買えなかったり。また、就業している男性が居住している地域に根付かない(長時間労働)ために起こる、定年後の家庭内トラブル。長時間労働に関しては、男性の幸福度が上がらない事にも影響している。


8.婚外子の人権、生きやすさに進展がない

 

などなど。

男も女も、LGBTQも、高齢者も子供も、「自分の要望」を口に出して議論する事自体が難しくなっているし、議論そのものが、結論ありきで行われる「日本式ディスカッション」に思える。(プラス、察して族や忖度族)
これも30年前から変わっていないようだ。
そういった「結論ありき」だと、議論をしても意味はない。
結局のところ、着地点は「その時の強者が望む形」に落ち着くだけだ。
その結果、この30年は「失われた」30年になり、日本だけが過去に生きているような状態になっている。例え、黒電話がガラケーになり、スマホになったとしても。

 


世の中には千差万別、様々な属性の人がいるのだから、様々な「ありよう」があるのがある意味自然だと思っている。
しかし日本はどうもロボット式が好きなようで、9時から5時まで勤務、とか、お母さんが働いていると子供がかわいそう、とか、アフター5は上司と飲みに「行かないと」いけない圧力とか、そういったものが依然として根強く残っている。
9時から5時までじゃなければ、満員電車も分散されるし(痴漢も減るだろう)、朝はお父さんが子供を保育園に、お母さんは早めの時間から働いて、お迎えはお母さんが行ってとか、夫婦ごとに「この形がベスト」というものを見つけられるかもしれない。

 

夫婦ではなくて、お母さんが2人でも、お父さんが2人でも、子供がハッピーに過ごせて、当たり前に教育が受けられるのなら性別にこだわる必要はない。夫婦の形にしがみついて、父親がDV親父でした、の方が不幸だ。

 

最近でも「出社かリモートか」で揺れている会社もあるが、従業員がそれを「選ぶ」主体になっていないのもなんだかおかしいと思う。
私は出社です。だから通勤費申請します。
私はリモートなので通勤費不要です。自宅に仕事用プリンターを購入したいのですが、経費にしてもらえますか?ダメなら、自費で買いますが。とか。


そういった事を「話し合って」、従業員が主体で仕事がしやすい形を見付ければいい。
しかし経営者は働いているところが見えないと安心できないのか、それとも「主体」が従業員に行くのが嫌なのか、「どっちか」を会社が決める形になる。

 

そもそも愛社精神なんてなくなっているのだから(こういうものはサクっとなくなっている)、従業員が「会社のため」に忖度することを待っていても、次にいい勤め先が見つかったらそっちに行ってしまうだけだ。

 

それは、就職氷河期に雇用を激減させていた会社が、「部長職にマッチする人がいなくて・・・」とボヤいているのを見れば分かる。
今、部長職に就くような世代は就職氷河期世代。自分たちが雇用してこなかったんだから、「生え抜きの」人材がいないのは当たり前。
ちょっといい人がいた、と思ったら外資系あがりでオーバースペックだったり、会社の風土に合わなくて・・・なんてことになる。
考えなくても、「当たり前だろ」と言いたい。


社会にも、会社にも、そして家庭にも柔軟性に乏しく、「ちょっと人より得してる」と思われるとバッシングされる。
(すごく得してると、逆にバッシングされないですり寄っていくのも気持ち悪いよな)
そんな社会で、少子化対策だ、子育て支援だ、女性参画だ、とやっていっても、それは「ちょっと得する」ポジションになってむしろ「はい、バッシングの標的はこちらです」になってしまう。
誰がそんなところで矢面に立とうと思うだろうか??


・・・なんて感じに、私の意見は変わっていっている。
今はとにかくやもめになった父のケアと、日々過ごすので精一杯だが、老後をどの国で過ごすか、というのはいずれキッチリ考えないといけないと思っている。
さて、どこにしようかな・・・